どうモメンです。
図書館で昨日、何となく目に留まり、パラパラを開いて、何かがひっかかり、そのまま貸し出して読んでみたのが、掲題の本でした。
正確には、私が読んだのは「超バカの壁」という後に出た方のやつです。
バカの壁とは何だったのか・・・意外にも進撃の巨人ぽい話だった
オリジナルの「バカの壁」の方は多分、若い頃に読んだことはあると思いますが、ほぼ理解できていなかった部分も多かったと思います。
今回私が読んだのは「超バカの壁」だったのでオリジナルの方はどんな内容か正確には分からないですが想像はできます。なぜかこの年になって、こういう本を読んで突如分かることもあるのです。
結局のところバカの壁とは何だったのでしょうか。
私が理解したところによれば、「私たちは気付いていないだけで、生まれてきてから今まで生きている間ずっと一元論的なものの見方にかなりの部分を支配されており、進撃の巨人でいうところの壁の内側の世界しか知らずに生きている」
自分で書いていて思いますが、20代の前半とかにこんな話を聞かされてもおそらく「ふーん」としか思わなかったような気がします。無職で、今日を生き伸びるために精いっぱいの人間には、壁の向こうの遠い世界の話なんて、まったくどうでもいい話ですから。もっと若い、中高生にしても同じでしょう。私は「ゆたぼん」系不登校だったので、学校の外にも広い世界があるという考え方は共感できますが、学校という概念そのものを抜きに、「人間には広い世界があるんだ」と理解できる子供がいるとしたら、それは様々な境遇や幸運に恵まれたきわめて特殊な子供だけでしょう。(さかなクンはそんな感じの子供だったようですがみんながみんなあんな風にはなれません。)
そもそも「バカの壁」という扇動的なタイトルは良くなかったでしょう。「認識の壁」とかそういうものでも良かったはずなんです。お前ら全員バカだぜと煽って本を読ませるのは今でいう炎上商法みたいなものでお世辞にも品が言いとは言えません。
ただそういう本筋と違う部分の評価は抜きにして素直に読んで見ると「あ、バカの壁ってそういうことだったのか」と、意外にちゃんと理解できてしまったのです。
コロナ禍の今だから、なんとなく腑に落ちる部分がある
養老孟子の「超バカの壁」を読んで、コロナ禍で、世の中がどんどん違って見えるようになってきた今の時代で、なにかすんなりと、腑に落ちるものを感じるのです。
ただこれには私がこれまで読んできた本も影響を与えています。
今年の初めに、ナシーム・ニコラス・タレブの「ブラック・スワン」という本を読み、とても感銘を受けました。
金融の世界は、株価の値動きなど、理屈では説明が付かない予測不可能な不確実性があります。
何もない平穏な日に突然株価が大暴落したりすることがあります。コロナの蔓延もそうです。
人間は「講釈の誤り」「因果の誤謬」を認識するのが難しい生き物で、こういう極端な事象は、標準偏差や統計学の中では、わざと切り離して、偏ったサンプルの中で、より万人が理解しやすい方向に結論を導いてしまったりするものなのです。金融や経済の世界で使われる計算はかならずどこかに人間の恣意性が混じり込んでおり、現実とかけ離れた結果を目にしながら、そこに説明可能な因果を当て込めて、自分が理解できる範囲の事象のみを認識しますが、実際の現実はその限りではないので「黒い白鳥」は必ず出現します。
物事に対して、徹底的に「実証主義」あるいは「帰納的」的アプローチを取ることは、少なくとも「黒い白鳥」という命題を面白く深く捉えるためには有効で、私はこの本を読んで以来、どちらかというと物事を帰納的あるいは実証的に考えることを、今までよりも重視するようになりました。
余談なのですが、この視点で「進撃の巨人」を見ると、作者はこの「ブラックスワン」を読んでいるのではと確信できる点が多々あります。登場人物のセリフやストーリーを見ても、あのアニメは不確実性や実証主義的世界観のカタマリです。
コロナについても同様で、全てが論理的に説明ができるものではないと思います。「コロナただの風邪説」や、「マスク不要論」、「ワクチンの有効性」など、コロナを巡る沢山の論争を見てきましたが、全てにおいて100%の正解がないということもまた真理なのだなと、凝り固まった頭でもなんとなく理解することはできたのです。
そういう柔らかくほどけた頭で「バカの壁」を読むと、何やら今になってストンと腑に落ちるものを感じたということです。
仕事のストレスを減らすには
経理職は苦悩が大きいです。養老先生に助けてほしいです。
会計は会社の経済活動で起こる取引すべてをお金に換算して説明できる言語なのでどちらかというと理屈で語るのは得意なのですが、仕事というのはどうにも、ロジカルではないようなのです。
(たとえば、定時が過ぎてもダラダラと残業をしている人の行動なんかもそれです・・・。)
上司や社長の話も、よくよく聞いていると筋が通らないものも多いですよね。いちいち論理的反論をしたくなりますが、とてもできません。やってもいいんですが、社会的に失うものも大きいので・・・
このように、経理職はロジカル的思考の中で非常にストレスが溜まる仕事です。
超バカの壁を読み、このような仕事におけるジレンマについては私はどう対処するべきかは、考えてみました。
仕事(経理)の中だけなら一元的思考、演繹的ロジカルシンキングは大事にするべき
あくまで仕事の中だけの話です。どう考えても、非論理的、非合理なものについては「それはおかしい」と指摘し、経理として精一杯仕事に取り組むのはそれはそれで良いことだと思います。少なくとも私は仕事においてはロジカルを重視します。
ただ、仕事とプライベートは別です。
世の中森羅万象や、人生に対する考えは、その限りではありません。
どうやって幸せな人生を送るか、コロナをどう理解するか、ワクチンをどう理解するか、世界が今後どうなるか、そういう問題を考える時に、目の前の現実から帰納的に、または実証主義的に物事を自分の頭で考えていくことが、大事なのだと思います。
私は学生の頃から投資に興味があって色んな本を読んできましたが、再帰性理論や、効率的市場仮説、行動経済学、カオス理論、フラクタル理論など、金融や株の世界は、予測不可能でユニークな理論が沢山あります。
それらを知れば知るほど、なぜか奇妙なことにすべてが『進撃の巨人』に繋がっていくという、とても驚愕の体験を、今私はしています。
養老孟子の超バカの壁を読んでいくと、最後の章で、やはり「フラクタル理論」が登場しました。
進撃の巨人も、巨人との闘いを通じて、あのような壮大な物語を描けるのは作者がフラクタル理論をよく勉強して意識しているからではないかなと密かに私は思っています。もう3、4回ぐらいアニメを見ていますが、見るたびによくできた話だなと感心しきりです。
バカの壁を今回手にとって、本の最初の数ページを読んだところで、何かがピンときたので、無意識のどこかで、本質を掴んでいたのかもしれません。
結局はこの「バカの壁」も、私が大好きな進撃の巨人に繋がっていました。つまるところあの壁の内側に住んでいる人間は全員バカということ、これは分かりやすいオチではないでしょうか笑
ちなみに私は自分が壁の外に住んでいるなどと言えるほど、高慢ではありません。ですが私たちの世界も、進撃の巨人のように、見えないだけで、実は巨大なが壁が周りにそびえ立っていて、その向こうにはきっと大きな世界があるはずと思えるのは素晴らしいことだと思います。進撃の巨人のキャラでいうと、アルミンやエルヴィンは、そのような思考の持ち主でした。
壁の外に出よう
フラクタル繋がりですが、面白い別の本を読みました。
それは「コラージュ」という切り絵を作る作業が、臨床心理学的に、人間に癒しの効果をもたらすということが研究者によって書かれた本でした。
コラージュは、ピカソらが発明した芸術技法で、一見脈略のない素材紙を集めてきて、切って張っていく作業なのですが、意識が分散しながらも深く集中できる現象が同時に起き、精神的に凄く良い状態がもたらされる効果があると考えられているそうです。箱庭療法的な感じのものだそうです。
私はこの話でコラージュに興味を持ち、現在それに近いことを趣味としてやっています。いろんな素材紙を集めて日記に切り貼りし、短い文章を書いています。すると、思いも乗らなかった着想を得ることがあります。
情報過多の今の時代ですと、好きなものを無作為に見つけ出してとことんやるということは難しいですが、何も考えずに出かけて、1日中ぶらぶら歩いて散歩して、カフェでボーっと何も考えずに適当に時間をつぶして、日が暮れる頃に家に買ってくるという生活をたまにはやってみることも、ひらめきのためには良いことだと思います。
コロナで、そういうことを積極的にやることに迷いがなくなりました。以前は貴重な一日中をどう無駄にしないかということにより大きな価値を置いていたと思います。今はどうでもいいことです。仕事も、生活も、どこか地に足が付かないふわふわした感覚が、最近ではむしろ心地良いぐらいになってきました。(これは私だけだと思いますが)
正気でいられないことが当たり前の世界なんて、コロナ以前の人間には想像もできなかったことでしょう。
今はボーナスのような時代を生きているのかもしれないなと、バカの壁を読んだあと、趣味の切り絵をやりながら、ふと私は思いました。